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創業物語

代表・仲谷の創業物語
はじめに
物語の始まりは・・・
              ずいぶん前、1995年12月の話です。
              とある就職情報誌の見開きに、ある無名の会社が求人広告を出しました。
              誌面にはまるで誰かのインタビュー記事のように文字がビッシリ。
              「日給xxxx円!」や「*****が私のやりがいです」といった読者の目をひくメリットや社員のインタビューが載っているわけでもない。
              ただ、誌面のど真ん中にひとりの男性の写真が貼られ、その右上にたったひと言。
              「そんなに、ハランバンジョーな人生でしょうか」
            
羅列された文字には、創業者である仲谷公司(当時35歳!)の会社設立までの経緯と苦労が(結果的に)コミカルに綴られています。
              1995年。
              P.D.R.が初めて本腰を入れて出した求人広告でした。
              まるで小説のように書かれた仲谷の創業物語がきっかけとなり、P.D.R.は初めて、知人以外の仲間を迎えました。
              そうして私たちはその後も採用を続け、今に至ります。
              現在P.D.R.では、社員とパートさんを含めて約60名以上が働いています。
            
              ここでは、当時の求人広告に書かれていた仲谷の創業物語をご紹介していきます。
              この瞬間に続くP.D.R.の過去の挑戦や戸惑い……会社沿革以上に、会社がまるごとわかってしまうはずです。
            
- 技術だけでは食べていけない世界……。
- 
              特に、自分が特別だと思ったことはありません。 
 ただ、振り返ってみるとほんの少しだけ、楽天的だったかもしれません。私は高校を卒業して専門学校に行きました。 
 歯科技工士の資格を取ったのです。深い意味はありません。
 「歯医者さんはお金持ちが多い。」
 だから、そういう関係の仕事に就けば儲かると思ったのです。でも、ある歯医者さんに言われてしまいました。 
 「歯医者も技工士もしっかり勉強しないとだめだよ」と。もっと勉強が必要だと感じた私は、専修科過程(すでに免許を持っている人が集まる講座)に進みました。 
 しかし、どうやら技術だけでは食べていけない世界のようで、世渡りも重要。
 でも私は、そんな世渡り上手じゃありません。そうだ、有名になればいいのだ! そんな時、講習会の開催に興味を持ちました。 
 歯医者さんや歯科技工士向けの講習会があるのですが、それは例えば『1回の授業料3万円。1コース10回の授業。
 定員30名』というモノでした。
 1回3万円、10回で30万円、30人で900万円…こりゃオイシイ!と思ったのですが、権威ある有名な先生じゃな
 いと生徒は集まらないそうです。
 あいにく私は無名の男です。きっと生徒は集まらない。そこで、私は思ったのです。有名になればいいのだ、と。 私は、技術ノウハウを盗むために、業界で有名な先生のもとへ押しかけました。 
 「給料はいらないから雇ってくれ」。
 雇ってくれたのはいいのですが、残念なことに、本当に給料は貰えませんでした。
 でも、しょうがありません。
 これもカリスマになるための厳しい修行だと思い、頑張りました。1年後、私はカリスマになることを諦めました。 
 カリスマは、努力してなれるものではないのですね。その後、母校に舞い戻りました。 
 歯科業界紙への投稿などの仕事に携わり、
 そこで材料や技術の記事を書く日々を送ることにしたのです。
- 「カンタンじゃん。」と始めたものの……。
- 
              ふと気がつくと、私は24歳になっていました。 
 かわいがっていた後輩までも、次々と就職を決めていきます。
 中にはオーストラリアやドイツ、スイスの会社に就職した羨ましいヤツもいました。自分のチカラでみんな稼ぎだしたんだなあ… 
 ここで何もせず突っ立っている自分に、苛立ちを覚えたのはいうまでもありません。歯医者さんのところには、よく材料屋さんが来ていました。 
 「先生、今回だけでいいですから、買ってくださいよ。頼みますよ」
 そうすると、たいていの先生は買ってしまうんですね。(お願いするだけでいいのか、カンタンじゃん。やってみようか) そんな関係に至るまでの、歯医者さんと材料屋さんとの信頼関係などは 
 全く見えていなかったんですね。
- なかなかうまくいかない毎日。
- 
              そして、1984年。25歳で材料屋さんになりました。 
 社名は太平洋研究開発を縮めて『太洋研開』です。おかしなことがあったものです。 
 せっかく材料屋さんになった私に、問屋が商品を卸してくれないのです。
 どうやら、「材料屋組合」というものがあって、そこに属していなければ、問屋さんは取引きしてくれないようなのです。
 しかし組合には、実績や推薦人がなければ入れてくれない。なんだ、それ? 取引先の先生が裏工作をして組合に話をつけてやると言ってくれましたが、オモシロクないので断りました。 問屋を通さずに自分でメーカーから商品を買いつけることにしました。 
 でも、一流メーカーは、どこの馬の骨かもわからない私には商品を売ってくれません。
 ネームバリューはないがモノは良い、そんなメーカーを探しました。
 問屋を通さずに仕入れるから安く売れるし、なんとか商売としてやっていけました。当初立てた『一ヶ月の売り上げ50万円・粗利20万円』は、開業3ヶ月で達成。 
 で、次は『粗利50万』を目標にしたのですが、いくらたっても達成できない。
 1日中車を運転して、歯医者さんや技工士さんに営業を掛けたのですが……
 おしりが痛くなっただけで、何の成果も得られない毎日が続きました。結局、粗利50万円までには開業後2年かかりました。 
- アメリカとの取り引き!?
- 
              寝るか仕事をしているかの私。 
 そんなとき、懇意にしていただいている方からひとつの情報を得たのです。「アメリカでは消耗品の50%が通販だぞ」 その人は、海外の大手歯科材料店から商品を輸入して、材料屋に、問屋を通さず直接卸せ、とアドバイスしてくれました。つまり、輸入代理店になれと言うのです。 
 さらに、日本人がアメリカでやっているという小さな商社まで紹介してくれました。どうしようか迷いましたが、結局やめました。 いくら安いからといって、組合まで作って自分たちの身を守る保守的な日本の材料屋が、得体のしれない私から、アメリカの材料を買ってくれる保障などどこにもありません。輸入したはいいが、在庫ばかりが増え続けることにもなりかねない。 
 私、これでも、ここぞというときは、石橋を叩いて渡るタイプなんですよ。通販をやってみよう! しかし、通販とはいい話を聞いたと思い、早速そちらをやってみることにしました。 
 屋号も『太洋研開』からオシャレな『パシフィック・デンタル・リサーチ』に変更しました。
 さらに、「医療用具輸入販売業」という国の業許可も取り付けました。
 これは、当時なかなか取るのが難しい許可だったんですが、頑張りました。まずは、先のアメリカ商社を通して、歯を削る金属バー(ドリルの先に付ける部品)を輸入。 
 紙の上に用具を並べて自分で写真を撮り、手書きで作ったダイレクトメール200部を、まずは大阪へ打ちました。
 1985年の暮れのことでした。ええ加減な製品ばっか作っとったらアカンに! 価格は他社の2分の1。なんと3件のリピートが! 
 こりゃいいぞ、と調子に乗ってダイレクトメール発送を全国に広げました。
 ダイレクトメールも手書きから印刷に。ここぞとばかりに大攻勢をかけました。販売量が増えて喜んだのもつかの間、次は、品質が悪いとクレームが来るようになりました。 
 輸入先はそこしか知らないので、変えるわけにもいかないし。
 困った私は、商社にずいぶん苦情を言いましたが、次の入荷でも、その次の入荷でも直らないのです。商社も困りはてたようで、最後には直接メーカーとやりとりしてくれ、と見放されてしまいました。
 そこでアメリカのメーカーに、テレックスで品質向上を要求しました。
 当時のアメリカは、Eメールはもちろん、ファックスも普及していなかったのです。テレックスとは海外用の電報のようなものでしたが、文章のやり取りではなかなかラチがあきません。
 困ったを通り越してシビレを切らした私は、アメリカ人の通訳を雇い、直接、メーカーに品質の向上のための電話をすることにしました。すると…通訳の方いわく、 
 彼らはアメリカ人のふりをしたイラン人だというのです。
 そして、相手には品質向上などする気もなさそうだ、とも。
 ずっとダマされていたのです。
 思わず、通訳の手から電話を取り上げ、「おみゃあさんとこ、ええ加減な製品ばっか作っとったらアカンに」と抗議しました。
 英語どころか名古屋弁でまくしたてたのですから、きっと伝わらなかったような気がします。そのメーカーとは間もなく縁を切りました。 
 初めて輸入したときから丸2年がたっていました。筋が通っていることを相手に要求して、相手が「わかった」と言ったとしても、本当はやる気なんかない。そんなこともあるのだと、私は外国人との2年間の取引を通じて学んだのでした。 
- P.D.R.誕生!
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              さて、見事に仕入先をなくした私。 
 でも注文は入ってくる。ボーッとしているワケにもいかず、ドイツで行われるIDS(International Dental Show)という 
 歯科材料の見本市を見に行きました。
 1987年のことです。なんと、そこでスイスのメーカーと取引できる話がついたのです。 
 嬉しさのあまり、ついでに観光でもしようとドイツやイタリアをレンタカーで4000キロも走破しました。そして、スイスとの取引にめどが立った私は調子に乗り、その秋には会社を株式会社にしたのです。 
 名前はパシフィック・デンタル・リサーチの頭文字をとってピーディーアール(P.D.R.)としました。(株)ピーディーアールは、スイスから仕入れたダイヤモンドバーをきっかけに、その後もマスクやグローブなど、取扱い商品を少しずつ増やしていきました。 
 取扱い商品を少しずつ増やし、ダイレクトメールを発送する。
 この繰り返しが5年ほど続きました。この間に、結婚もしました。 
 人を雇うお金も余裕も無かったので、結婚と同時に妻にも仕事を手伝ってもらうようになり助かりました。
 そんなつもりはなかったのですが、妻には少々無理をさせました。
 私は相変わらず元気でしたが、妻は病気になったこともありました。
- 通販には不向き。でも、取り扱ってみよう!
- 
              そして、1992年。 
 当時、全国的に通販をしている同業は3社です。
 彼らとの差別化を図るため、他がイヤがって取扱っていない製品を扱うことにしました。そのひとつが石膏です。 
 石膏はカサが張るは重いはで、通販には不向きに違いありません。
 でも、他がやっていないのですから、売れるに決まっている。
 「医療用具製造業」という国の許可もとり、歯科用石膏を発売したところ、ヨミ通りしっかり売れました。加工工場を増設して販売にもテコ入れしました。私なりに勝負を賭けたのです。そのころからです。 
 これまでの出来事がウソのように会社がうまくまわり始めたのは。年商がようやく1億円を超えました。 
 お客様からは安いし品質も良いと言われるようになりました。
 不景気で、歯医者さんも価格に敏感になってきたようでした。
 不景気のおかげで売上が上がったなんて不謹慎ですが、「不景気ありがとう」と言いたい気持ちでした。1万件の顧客! 国内のメーカーも私たちの存在を無視できなくなってきたようで、 
 この頃には製品を売ってくれるようになりました。
 問屋からの圧力を受けながらも、「ピーディーアールさんは売ってくれるから」と言ってくれたのです。
 メーカーさん、それは正しい選択だ。そのうち、1万件の顧客を持つまでになりました。 
 「午後2時までのご注文は当日発送」を売りにしていた私たち。
 手作業ではテンテコマイしてしまいますから、受注管理システムを導入しました。
 商品管理・顧客管理はバッチリこれでOK。
 金払いの悪いお客さんも一目でわかるシステムにして、支払方法は商品代金引換のみから、郵便振込や自動引落しなど後払いも受けられるようになりました。当時のポリシーは「売れるものしか扱わない」でした。 
 だから、取扱い品目は100種類しかありませんでした。
 たぶん、日本一取扱い品目が少ない材料屋だったでしょう。ダイレクトメールだけでなく、FAXでの案内も始めました。 
 「こんな商品も始めました」というタイムリーな製品情報を発信したかったのです。
 ダイレクトメールでは、商品の製造工程なども特集として載せるようになりました。
 この広報物づくりには、カリスマを目指していた頃の修行や、業界紙に記事を書いていた頃の知識がとても役に立っています。
- 独立して10年、ようやく会社らしくなり……。
- 
              私も35歳になりました。 
 独立して10年目、1994年の5月期はようやく会社らしくなり、売り上げも3億円に。
 翌年の売り上げも4億円を見込めました。
 この頃からでしょうか、シアワセを感じ始めたのは。
 頑張ってきた甲斐があったなあ、と。ただ、妻はずいぶんとキツかったろうし、ようやく授かった子供も寝顔しか見られなかった。 
 両親にも心配かけました。ここから「恩返し」を気にするようになりました。
 毎晩、子供と一緒に入るオフロがいちばんの楽しみになりました。
 ……なんていうと「まるくなったなぁ」と思われるかもしれませんね。この頃の社員は、私と妻と、中途採用の男性が2人、パートから社員に昇格した女性3人、 
 あとはパートさん20人。合計で27人です。男は私を含めて3人です。
- "ハランバンジョー"な人生。
- 
                そして、はじめての大きな求人広告を出しました。 
 誰かが辞めそうだとか、目が回るほど忙しいとか、特別な事情があったわけでなく……
 ただ、私自身もう一度本当にやりたいことを見つめ直したい。
 地に足つけてこの仕事を考えれば、もっと面白いことができるんじゃないか。
 そう思ったのです。これといった特別な経験や能力は一切要求しませんでした。 
 「とにかく何かに打ち込みたい」という気持ちさえあれば十分だったのです。新入社員に刺激を受けながら、また明日に向けていろいろなことをやっていけたらウレシイ。 
 そう思って声を掛けました。海外メーカーの開拓ですか?いいですよ。一緒にやりましょう。 
 面白い仕事をしましょう。そう思って。
- 
              
                「ハランバンジョー」というのは、求人広告についていたキャッチコピーです。 
 採用支援会社の社長さんが、当時流行っていたテレビ番組からとってつけてくれたようです。今になると、この程度の経験で「ハランバンジョー」というのは大変おこがましいのですが。
 私自身は、自分の人生が波乱万丈だなんて考えたこともなく、その時、その時を一生懸命すごしていただけでした。 
 2025年の今でも眉間にシワを寄せて悩んだり考えこんだりすることもありますが、少しでも楽しく毎日をすごせるように、少しでも世の中のお役に立てるようにと努力を続けています。 
 (2025年2月作成) 
