ハラジョー|【番外篇】谷川あかねの場合
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谷川あかね篇|はじめに・・・☆ 2009年06月26日

1995年12月、仲谷がだした自伝とも言える求人広告を見て

応募をしてきたのが谷川あかねでした。

 

 

文字だらけの「ハランバンジョー」と名付けられた求人広告を読み、

心打たれた彼女の人生のひと幕を、【番外篇】として掲載します。

 

なんて書きましたが、実は、今からご紹介するのは

2002年5月に求人情報誌に掲載されたP.D.R.の求人広告です。

 

 

仕事を頑張りたい、人間を磨きたい、

頑張っているみなさんに共感していただける話ではないでしょうか。

ぜひ、楽しんで読んでくださいね。

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谷川あかね篇|~1993年。P.D.R.に出会うまで(1/2) 2009年06月26日

 ~時は遡って、2002年の話です~

私は、谷川あかねと申します。

あまり年齢は言いたくないのですが、仕方ありません。38歳です。

 

20代のはじめ、短大を卒業して入社したのは、大手上場企業でした。

ええ、普通のOLです。

仕事に生きがいを求めていたわけでも、人生を模索していたわけでもありません。

だから、いい人が見つかった時点で、何の迷いもなくすぐ結婚しました。
 

寿退社した後、

結婚相手の実家が事業を営んでいましたから、私も手伝うことになったんです。

事業といっても中小企業です。

でも、小さな会社だからこそ、前の会社にはない手応えがありました。

任され感があるんです。自分が必要とされているというか。

 

もちろん、経営者じゃありませんから、

実際に会社を動かしているわけではありませんが、

自分の手がける仕事の一つ一つで会社が変わっていく。

そんな充実感を得られた毎日でした。
 

ただ、私は離婚してしまったのです。29歳のときでした。

大きな転機です。描いていた未来予想図が真っ白になってしまったのですから。

 

強く思いました。

これを機に、自立した人生を歩んでいかなければならない。

新しい人生設計図を、これからは自分の手で描いていくのだ、と。
 

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谷川あかね篇|1993~1994年。P.D.R.に出会うまで(2/2) 2009年06月26日

それからは、派遣をやり、アルバイトをやり、

いろいろな仕事を経験してみました。

 

男女雇用機会均等法があるものの、

均等に働ける職場なんてほとんどないな、というのが実感でした。

どれだけ頑張っても、けんめいに仕事に打ち込んでも、

最後の肝心なところはキャリアの社員が持っていってしまう。

意見があっても通らない。意志があっても受け入れられない。
 

派遣やアルバイトだけでなく、

正社員としてある一部上場企業にも籍を置きました。

 

企業規模からいっても、一生を捧げられる会社だと思って入社しました。

しかし、その会社も結局は1年ちょっとで退職してしまったのです。

 

たしかに普通に仕事をしていれば、

残業することもなくアフター5を楽しんだりできるでしょう。

愛想よく入力作業をこなしていれば、

余計なプレッシャーを持たずに仕事をこなしていけるかもしれません。

 

でも、それは結局

「アテにされていない」ということではないでしょうか?

 

知らず知らずのうちに、安定を求めてしまっていた。

この就職に失敗した最大の原因は、ここだと思っています。
 

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谷川あかね篇|1995年1月。P.D.R.を知る。 2009年06月26日

人生の図面に、1本の線を引いては消し、また引いては消す。

そんな繰り返しでした。

再び、求人雑誌をめくる日々が続きました。

設計図を描いていくのは、なかなか難しいものです。

どの会社の情報を見ても、一長一短でなんだかピンとこない。

 

そんなとき、求人誌で、PDRの求人広告を目にしました。

というかイヤでも目に止まってしまったのです。文字だらけの広告でしたから。

隅から隅までギッシリ文字が書かれている。

「伝えたい」という思いがそこにあるような気がして、

思わず読みはじめてしまいました。

社長が会社を興したときのこと。

保守的だった歯科材料販売の世界に通信販売のシステムを導入し、

価格破壊を起こしたこと。

品質クレームが頻発し、歯を食いしばりながら品質向上を実現したこと。

安く商品を提供するために、単身海外に渡り取引先探しをしたときのことなど、

さまざまな思いがそこには綴られていました。

 

そして、最後にひとこと。

「私と一緒に会社を切り盛りしてくれる方を募集します」

 

一緒に会社を切り盛りする……

小さな会社で得られていた満足感を、私は思い出していました。

 

会社説明会に参加し、社長にお会いして話を聞き、実際に会社を見学に行って、

私はどうしても入社したいと思いようになりました。

 

細かなことはどうでもよかったのです。

なにか「熱」のようなものに惹かれたのだと思います。

それは熱気かもしれませんし、情熱かもしれません。

端っこでポツンと仕事をするのではなく、熱の真ん中で仕事ができる。

そんな期待感がPDRという会社にはありました。

 

「もし不採用なら、パートで採用してください」とまで言ってしまっていました。

熱が伝染したのでしょうか。いま思えば私も相当熱くなっていました。

 

入社したいと思っていたのはいいのですが、不安がなかったわけではありません。

じつは、資格に「要普免」とあったのですが、私は立派なペーパードライバーでした。

そんな小さなこと、と笑わないでください。

クルマの運転をしなきゃいけないのが、本当に不安だったんですから。

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谷川あかね篇|1996年3月。P.D.R.に入社する。 2009年06月26日

パートではなく、正社員で採用されました。

入社して驚いたのは、小さな会社にもかかわらず、

きっちり会社を運営していることです。

 

P/LやB/Sもわからないのに経理を自前でやっていたり、

そのくせお茶くみ要員がいたり、

中枢スタッフが欲しいと思っているのに採用コストをケチったり、

給料を現金で配っていたり……

中小企業には、ヘンなところでヘンなルールがあるものです。

でも、この会社は私がイメージしていた中小企業とはまったくの逆でした。

新卒や中途採用を定期的に行い、ン百万円のコストをしっかり投資している。

社屋も大きくないものの、とても小ギレイにしている。

将来ビジョンもはっきりしている。

社員もパートさんも分け隔てなく、ちゃんと戦力として活用している。

入社してさらにこの会社の良さがわかったという感じです。

 

実は、私が入社した時、社員は社長の他に、男性2名、女性3名でした。

そこに、私と新卒の社員が二人加わりました。

新卒社員の男性は安達くんと言う名前だったのですが、

新しく出てきた仕事はほぼ全て私と安達くんの二人で切り盛りしていました。

求人広告に嘘はありませんでした。もう、任せられすぎ。

 

社長が来たと思うと「谷川さん、この販促考えてくれんか?」と一言。

販促内容からツール作成まで、すべて私が企画し、切り盛りしていかなければなりません。

ランチする時間もなく仕事をしていると、「頑張ってね」の言葉とともに、

パートさんの誰かがコンビニでパンを買ってきてくれたり。

オシャレなカフェでランチもいいけど、こういう瞬間もなかなかいいものです。

 

仕事は本当に大変でしたけれど、

辛いとか、辞めようと思ったことは、1度もありませんでした。
 

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谷川あかね篇|1997年。突然の海外出張。 2009年06月26日

入社2年目のときです。

ラテックスグローブというゴム手袋があるのですが、

その商品にクレームが殺到したことがありました。

 

歯科医院から「サラッと感が足りないから、使い勝手が悪い」と

意見が次々と届いたのです。

取り引きしていた輸入代理店の担当者に問い合わせても、「品質は規格内。問題なし。」の一点張り。

このままではラチがあかないと判断した社長は、私に言いました。

 

「谷川さん、マレーシアにあるメーカーに行って、改善案を見つけてくれんやろうか。

 あ、オレは行けないんだけどさ」

 

なんとあっさり「行け」という社長でしょう。

任せっぷりのいい社長だと褒めてあげたいのは山々ですが、

今度ばかりはそうもいきません。

 

マレーシアでメーカーと交渉するなんて……

焦らない人がいたら見てみたい。

しかし、泣きごとを言っても仕方ありません。

数日後、私は大きな旅行鞄をもって、空港に佇んでいたのでした。

 

そして。

語学は多少できるつもりでしたが「多少」は「ほぼできない」と

同じ意味だということを痛感しました。

 

現地工場での交渉は難航しました。伝えようとする品質がうまく伝わらない。

できるだけ平常心を保って交渉しようと努めていたのですが、

時にキレた私は「どうしてわかってくれないんですか!」と

日本語で怒鳴ってしまったこともありました。

輸入代理店の担当者は「まあまあ、」と日本語で言うばかり。

でも、怒鳴ってしまった自分を、自分で恥じた。

工場の人たちも、私のつたない英語での説明を、

一生けんめい聞き取ろうと真剣に耳を傾けてくれていたのに……。

 

なんとか「明日までに徹夜で改良品を作る」という約束を取り付けてホテルに戻ると、

張りつめていたものが一気に解かれて、ドッと疲れや不安の波が押し寄せてきました。

明日、また工場に行って、製品の品質が改善されていなかったらどうしよう?

工場の皆が徹夜で作ってくれた商品に、NGを出さなければいけないのか?

泣きながら会社に電話したこともありました。

 

電話口で社長は

「何しに行ったんだ?会社の皆が、自信を持って売れる商品を待っているんだぞ。

自分の責任を考えたら、そんなことじゃいかんだろ」と一喝。

 

慰めの言葉を期待していたわけではないけれど、

心温まる言葉をいってもらえなかったことには驚きました。

でも、次の瞬間、電話で苦情を受け、お客様に謝罪するパートさんたちの顔が目に浮かびました。

 

いま思えば、任されているというのはそういうことなんです。

その日の夜、メーカーが本当に徹夜で改良品を作っているのか、

輸入代理店の担当者を引き連れて、タクシーで工場まで見に行きました。

これにはメーカーの人も驚いていました。

そもそもそのメーカーに女性バイヤーが来るのは初めてだったし、

ろくに通じない英語で品質のことをガンガン要求してくるというのも初めてのことだったそうです。

 

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谷川あかね篇|2002年。入社7年目の頃。 2009年06月26日

 

入社して7年めの今、

年商は11億円になりました。

入社時の年商は3億円。企業規模もかなり大きくなってきました。

 

悪いものは売らない。横着なビジネスはしない。

 

シンプルなことだけど、これをやるのがなかなかできない。

でも、真面目に商売しようと頑張ってきたからこそ、

ここまで成長できたんだと思います。

私も私なりに、真面目に頑張ってきたから、

ちょっとは成長できたかな、なんて思っています。

 

人生の設計図は、まだまだ描きかけの未完成のままですが、

この会社で頑張れば、何年後かにはちゃんとした絵が描けるような気がしています。

 

今の不安ですか?

そうですね、やはりクルマの運転でしょうか。

ちょっとは上手くなったと自分では思っているのですが、

誰も私の助手席に乗ってくれません。

 

あの時、私が見た求人広告に書かれていた言葉。

今度は社長に代わって、私があなたに伝えます。

 

「一緒に会社を切り盛りしていきませんか」

 

頑張りたいと思っていても、

思っているだけじゃ、時間だけが過ぎていってしまいます。

そして気付いたら、もう転職も何もできない年齢になっていた…

なんてことだけは避けなければなりません。

頑張りたいときに、頑張るのです。

 

何歳になっても、泣いたり、笑ったり、怒ったり、

そんな毎日を送りたいと思いませんか。
 

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「はじめに」でも書いたとおり、この「谷川あかね篇」は

2002年現在の谷川の様子を描いて出した中途採用の広告をもとに書きました。

 

 

 

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谷川あかね篇|2010年。 2010年05月19日

※『ハラジョー|【番外編】谷川あかねの場合』の補足です。

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2010年1月。ご主人の任期終了と共に帰国した谷川あかねは、PDRにも復帰してくれました。

今では不在期間があったなんて皆が(本人も?)忘れてしまうくらい、

社長の右腕として、頼れるお姉さんとして活躍中。

いろんな部署の人と喜怒哀楽を分かち合う、忙しくも充実した日々を送っています。

 

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