スタッフのひとりごと
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ハラジョーな人生|1985年〜 2009年06月18日

 

ふと気がつくと、私は24歳になっていました。

かわいがっていた後輩までもが、次々と就職を決めていきます。

中にはオーストラリアやドイツ、

スイスの会社に就職した羨ましいヤツもいました。

 

自分のチカラでみんな稼ぎだしたんだなあ…

ここで何もせず突っ立っている自分に、

苛立ちを覚えたのは言うまでもありません。

 

歯医者さんのところに、よく材料屋さんが来ていました。

「先生、今回だけでいいですから、買って下さいよ。頼みますよ」

そうすると、大抵の先生は買ってしまうんですね。

 

(お願いするだけでいいのか、カンタンじゃん。やってみようか)

そんな関係に至るまでの、歯医者さんと材料屋さんの間の信頼関係などは

全く見えていなかったんですね。

 

そして、1984年。25歳で材料屋さんになりました。

社名は太平洋研究開発を縮めて『太洋研開』です。

 

おかしな事があったものです。

せっかく材料屋さんになった私に、問屋が商品を卸してくれないのです。

どうやら、材料屋組合というものがあって、

そこに属していないと問屋さんが取引きしてくれないようなのです。

組合に入ろうと思ったところで、実績や推薦人がないと入れてくれない。

 

なんだ、それ?

 

取引先の先生が裏工作をして組合に話をつけてやると言ってくれましたが、

オモシロクないので断りました。バカヤロ。

 

問屋を通さずに、自分でメーカーから商品を買いつけることにしました。

でも、一流メーカーは、どこの馬の骨かもわからない私には商品を売ってくれません。

ネームバリューはないがモノは良い、そんなメーカーを探しました。

問屋を通さずに仕入れるから安く売れるし、なんとか商売としてやっていけました。

 

当初立てた『一ヶ月の売り上げ50万円・荒利20万円』は、開業3ヶ月で達成。

で、次は『荒利50万』を目標にしたのですが、いくらたっても達成できない。

1日中車を運転して歯医者さんや技工士さんに営業を掛けたのですが…

おしりが痛くなっただけで、何の成果も得られない毎日が続きました。

 

結局、荒利50万円までには2年かかりました。
 

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ハラジョーな人生|1987年〜(1/3) 2009年06月18日

 

寝るか仕事をしているかの私。

そんな時、懇意にしていただいていた方からひとつの情報を得たのです。

 

「アメリカでは消耗品の50%が通販だぞ」

 

その人は海外の大手歯科材料店から商品を輸入して、

材料屋に問屋を通さず直接卸せ、とアドバイスしてくれました。

つまり、輸入代理店になれと言うのです。

さらに、日本人がアメリカでやっているという小さな商社まで紹介してくれたのです。

どうしようか迷いましたが、結局やめました。

 

いくら安いからと言って、組合まで作って自分たちの身を守る保守的な日本の材料屋が

得体のしれない私から、アメリカの材料を買ってくれる保障などどこにもありません。

輸入したはいいが、在庫ばかりが増え続けることにもなりかねない。

私これでも、ここぞという時は、石橋を叩いて渡るタイプなんですよ。

 

しかし、通販とはいい話を聞いたと思い、

早速そちらをやってみることにしました。

 

屋号も『太洋研開』から『パシフィック・デンタル・リサーチ』という

オシャレな名前に変更しました。

さらに、「医療用具輸入販売業」という国の業許可も取り付けました。

これは、当時なかなか取るのが難しい許可だったんですが、がんばりました。

 

まずは、件のアメリカの商社を通して、歯を削る金属バー(ドリルの先に付ける部品)を輸入。

紙の上に用具を並べ自分で写真を撮り、

手書きで作ったDM200部をまずは大阪へ打ちました。

1985年の暮のことでした。 

 

価格は他社の2分の1。なんと3件のリピートが!

こりゃいいぞ、と調子に乗ってDM発送を全国に広げました。、

DMも手書きから印刷に。ここぞとばかりに大攻勢をかけました。

 

販売量が増えて喜んだのもつかの間、次は品質が悪いとクレームの雨あられなのです。

輸入先はそこしか知らないので、変えるわけにもいかないし。

困った私は、商社にずいぶん苦情を言いましたが、次の入荷でも、その次の入荷でも直らないのです。

商社も困りはてたようで、最後には直接メーカーとやりとりしてくれ、と見放されてしまいました。

 

そこで、アメリカのメーカーに、テレックスで品質向上を要求しました。

当時は、Eメールはもちろんのこと、ファックスもアメリカでは普及していませんでした。

テレックスとは海外用の電報のようなものでしたが、文章のやり取りではなかなかラチがあきません。

困ったを通り越しシビレを切らした私は、

アメリカ人の通訳を雇い直接メーカーへ品質の向上のための電話をすることにしました。

 

すると…通訳の方曰く、

彼らはアメリカ人のふりをしたイラン人だと言うのです。

そして、相手には品質向上などさせる気などなさそうだ、とも。

ずっとダマされていたのです。

 思わず、通訳の手から電話機を取り上げ、

「おみゃあさんとこ、

  ええ加減な製品ばっか作っとったらアカンに」

と抗議したのですが、英語どころか名古屋弁でまくしたてたのですから、

きっと伝わらなかったような気がします。

 

そのメーカーとは間もなく縁を切りました。

初めて輸入した時から丸2年がたっていました。

 

筋が通っていることを相手に要求して、

相手が「わかった」と言ったとしても、本当はやる気なんかない。

そんなこともあるのだと、私は外国人との2年間の取引を通じて身につけたのでした。

 

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ハラジョーな人生|1987年〜(2/3) 2009年06月18日

 

さて、見事に仕入先をなくした私。

でも注文は入ってくる。

ボーッとしているワケにもいかず、

2ヵ月後にドイツで行われるI.DS(international dental show)という

歯科材料の見本市を見に行きました。

1987年のことです。

なんと、そこでスイスのメーカーと取引できる話がついたのです。

嬉しさのあまり、ついでに観光でもしようと

ドイツやイタリアを4000キロも走破しました。 

 

そして、スイスとの取引にめどが立った私は調子に乗り、

その秋には会社を株式会社に

(名前はパシフィック・デンタル・リサーチの頭文字をとってP.D.R.)したのです。 

 

(株)P.D.R.は、スイスから仕入れたダイヤモンドバーをきっかけに、

その後もマスクやグローブなど取扱商品を少しずつ増やしていきました。

取扱商品を増やし、ダイレクトメールを発送する。

この繰り返しが5年ほど続きました。

 

そして、1992年。

当時は、全国的に通販をしている同業は3社ありました。

彼らとの差別化を図るため、

他がイヤがって取り扱っていない製品を扱うことにしました。

 

そのひとつが石膏です。

石膏はカサが張るは重いはで、通販には不向きに違いありません。

でも、他がやっていないのですから、売れるに決まっている。

「医療用具製造業」という国の許可もとり、歯科用石膏を開発したところ、ヨミ通りしっかり売れました。

しかも、加工工場を増設して販売にもテコ入れしました。

私なりに勝負を賭けたのです。

 

そのころからです。

これまでの出来事がウソのように会社がうまくまわり始めたのは。

 

年商がようやく1億円を超えました。

お客様からは安いし品質も良いと言われるようになりました。

不景気で、歯医者さんも価格に敏感になってきたようでした。

不景気のおかげで売上が上がったなんて不謹慎ですが、

私、不景気ありがとうと言いたい気持ちでした。
 

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ハラジョーな人生|1987年〜(3/3) 2009年06月18日

 

国内のメーカーも私たちの存在を無視できなくなってきたようで、

この頃には製品を売ってくれるようになりました。

問屋からの圧力を受けながらも

「P.D.R.さんは売ってくれるから」と言ってくれたのです。

メーカーさん、それは正しい選択だ。

 

1万件の顧客を持つまでになりました。

「午後2時までのご注文は当日発送」を売りにしていた私たち。

手作業ではテンテコマイしてしまいますから、受注管理システムを導入しました。

商品管理・顧客管理はバッチリこれでOK。

金払いの悪いお客さんもバッチリわかるシステムにしましたから、

支払方法は商品代金引換のみから、郵便振込や自動引落しなど

後払いも受けられるようになりました。

 

当時のポリシーは「売れるものしか扱わない」でした。

だから、取扱い品目は100種類しかありませんでした。

たぶん、日本一取扱い品目が少ない材料屋だったでしょう。

 

ダイレクトメールだけでなく、FAXでの案内も始めました。

「こんな商品も始めました」というタイムリーな製品情報はもちろん、

新しい技術の紹介なども載った広報物を顧客に送信したかったのです。

この広報物づくり、カリスマを目ざしていた頃の修行や、

業界紙に記事を書いていた頃の知識がとても役に立っています。
 

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ハラジョーな人生|1995年〜 2009年06月18日

 

私も35歳になりました。

独立して10年目、1994年の5月期はようやく会社らしくなり、売り上げも3億円に。

来年の売り上げも4億円を見込めました。

この頃からでしょうか、シアワセを感じ始めたのは。

頑張ってきた甲斐があったなあ、と。

 

ただ、妻にはずいぶんとキツかったろうし、子供も寝顔しか見られなかった。

両親にも心配かけました。ここから一生懸命恩返しをしていきました。

毎晩、子供と一緒に入るオフロがいちばんの楽しみになりました。

・・なんて言うと「まるくなったなぁ」と思われるかも知れませんね。

 

この頃の社員は、私と妻と、中途採用の男性が2人、パートから社員に昇格した女性3人、

あとはパートさん20人。合計で27人です。男は私を含めて3人です。

 

そして、はじめての大きな求人広告をだしました。

誰かが辞めそうだとか、目が回るほど忙しいとか、

特別な事情があったわけでなく・・

ただ、私自身もう一度本当にやりたいことを見つめ直したい。

地に足つけてこの仕事を考えれば、もっと面白いことができるのじゃないか。

そう思ったのです。

 

これといった特別な経験や能力は一切要求しませんでした。

「とにかく何かに打ち込みたい」という気持ちさえあれば十分だったのです。

 

新入社員に刺激を受けながら、

また明日に向けていろいろなことをやっていけたらウレシイ。

そう思って声を掛けました。

 

海外メーカーの開拓ですか?いいですよ。一緒にやりましょう。

面白い仕事をしましょう。そう思って。

 

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おわりに|2017年

「ハランバンジョー」というのは、求人広告についていたキャッチコピーです。

採用支援会社の社長さんが、当時流行っていたテレビ番組からとってつけてくれたようです。

今になると、この程度の経験で「ハランバンジョー」というのは大変おこがましいのですが。

私自身は、自分の人生が波乱万丈だなんて考えたこともなく、

その時、その時を一生懸命すごしていただけでした。

いまでも眉間にシワを寄せて悩んだり考えこんだりすることもありますが、

少しでも楽しく毎日をすごせるように、少しでも世の中の

お役に立てるようにと努力を続けています。

 

この時の広告を見て入社してきた谷川あかねの物語はこちら
 

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